時は宋朝理宗のころである。行在臨安府の官吏である李充は同郷の商人のもとを訪ねた。

 商人は同郷の進士たるを大いに喜んで、李充に肉を饗し酒を酌み交わした。はじめは楽しい席では会ったが、故郷の話に花を咲かせているうち、酔いのせいもあろうが、懐かしさと悲壮さの区別がつかなくなり、李充はついつい状元文天祥の免官によって自分の立場が危ういことを商人の前で嘆いてしまった。言えばまたさらに悲しくなってついにはおいおいと泣き叫ぶ始末。商人の方もせっかく官府に取り入る機を逃してはと必死に李充をなだめるのだが、李充の方は聞き入れる様子も無い。すると商人は、それでは桃の花を御覧になってはいかがでしょうかという。季節は小暑である。年中春であるといわれる杭州でもこの時期に桃の花がどこに咲いているというのか。李充は酒を不味くした非礼を詫び、帰途に着こうとした。ところが商人は杭州西郊の西湖のほとりにある桃木は年中その花を落とさぬのだという。それは何故かと李充は問う。商人は恐れも碧霞元君の末娘の末娘、霞香姑が桃花の下で茶を喫っされておられるからとは里人の伝えでございます、と答えた。霞香姑といえば西湖の西、龍井に住むといわれ、茶を嗜むとして杭州では大いに信仰を集めている女仙である。喫茶はもともと僧の嗜みではあるが、高宗が臨安を行在に定めてより広く世人に及んだ。当今では霞香姑が人に教えたという者まで現れるほどである。すっかり不思議に思った李充は是非見ようと商人に案内を頼もうとするところだったが、外はもう暗くなりかけている。本日はこちらにお泊りになり、明日ご案内いたしましょうと商人がいうに従った。

 明けてみると商人は商いに出ており、代わりに下男が案内するという。下男は最初馬を引いてきたが、学問政務に明け暮れていた李充のこと、馬のような危ない乗り物に乗ればたちまち転落してしまうであろう。ここへ来たのも駕篭を使ったのであった。下男はあわてて馬を戻し急ぎ戻ってきたが、李充の駕篭引きはすでに準備を整えた後であった。

 商人の話では不落の桃花はその珍しさから常に訪れる人が絶えないということだったが、道中人も疎らであり、着いてはみても一人としていない。下男はあれでございますと一本の丸裸の巨木を指した。なるほど立派な桃木ではあるが、花は突いていない。李充はこの木で本当に間違いはないかと問うたが、この木でございますと何度も返ってくる。

 李充は悄れた。せっかく自邸に寄って茶壺、茶杯など諸々を運んできたというのに無用であったということか。もしやあの商人にだまされたのではないか。考えても詮無いこと李充は駕篭を降りてしばらく桃木を見上げていたが、そのうちあることに気がついた。この桃木、葉をつけていないのである。幹は良く張っており枯れたわけではなかろう。外の意味で不思議な木ではあった。

 李充は喫茶去ならずとも一周する間に一首作り霞香姑に呈して帰することにした。桃木のちょうど裏側まで廻ったところである。幹に隠れて見えなかった一枝にびっしりと花がついているではないか。大輪、色は濃紅で糖漬けのように甘く香る花である。まだ葉をつけていないということはこれでもかというほどの遅咲きであろうか。これから開花するとすれば、ニ、三日様子を見ていれば全ての枝が花を付けるかも知れぬ、と李充は詩作も忘れて花を愛で、いずれ他の枝も花を付けるならと、その枝を手折って持って帰った。

 自邸に戻ると日が暮れていた。李充は桃花を付けた枝を寝所の白磁の花瓶に活けると夕餉もそこそこに吉夢の予感しながら眠りに就いた。

 女の声がした。仲成、仲成(仲成は李充の字)とが李充を呼んでいるようである。妻の使っている者であろうか。字で呼ぶとは無礼な、自分はまだ免官されたわけではないぞと起き上がろうとしたが、どうも背中が硬い。振り返ればなんと土の上で寝ているではないか。さらに、見渡せば自分の寝所ですらない、野外である。が、李充には見覚えのある場所であった。そう、李充は今日行ってきたばかりの桃木の下で寝ていたのだ。再度仲成と女童の声がした。李充は立ち上がり、土を掃うと女童を探す。しかしどうも視界が悪い。声は続ける。見ようとするから見えない。見ずに見よ。それはどういうことか。李充は訊く。声は、言葉でわからぬかといったきり答えない。どういうことか。李充は逡巡するが、そこへふと桃化の香りが李充の花を掠めた。と、一気に視界が開ける。李充の眼前には鮮やかな濃紅が広がった。桃木は満開である。やっと目覚めたか。また声が聞こえた。今度は聞こえてくる方向がはっきりと分かったのでその方を向くと、女童がいた。女童は卓を前に椅子に座り李充の方を見ている。二人の間に釜の湯から出た湯気が通り過ぎる。女童は茶を喫していたようだ。見れば茶壷も茶杯も目を奪われるような逸品である。お前は仲成であろうと女童は童とは思えぬ艶やかさで笑む。李充はどなたかは分かりませんが、あなたが先ほどから呼ぶのは私の字です、これでも自分は臨安府の官吏を任ぜられた者で李充と申しますと名乗った。対して女童は、蓮っ葉の岳は文字通り鄂号を得、切れ者の秦は王号を奪われたと聞く、そのような臨安の官吏が何を偉ぶるかという。

 李充は驚いた。岳とは金の軍勢を大破したと称えられる尽忠報国の鄂王将軍のことである。それを蓮っ葉とは皇帝ですら呼ぶことは難しいであろう。いったいこの女童は何者であろうか。李充は三回叩頭して問うた。あなた様はいったいどなたであらせられるか。女童は答える。我か、我は碧霞元君は傍系、霞香姑と呼ばれておる。なんと仙道であった。それを聞いて李充は九回叩頭して、霞香姑様がこの充に何の御用でしょうかと問うた。霞香姑は、お前はこの霞香姑が桃木を折ったであろう、茶話の相手をせよ。李充は花を桃木を折ったことを咎められてると思い心底震えたが、霞香姑はそれを否定した。その分の働きをすればよいとのことである。霞香姑は李充に椅子を勧め、茶を勧めた。恐れる李充が落ち着きを取り戻すためにはずいぶんと時間を要したのであった。

 霞香姑の言うにはこうである。霞香姑は茶席のために桃木を咲かせたのではなく、桃花を咲かせるために、ここで茶席を設けている。この桃木、かなりの話し好きでよい話をきいたときには良い花を咲かせる。李充が手折った枝は桃木が誤って目に見える花を咲かせてしまったものである。また、良い話を聞けば花を付ける。という理由で、茶話をせよ、と霞香姑は言ったのであった。それではと李充は桃李の故事を引いた漢詩を作り、その場で吟じた。しかし、霞香姑はそのような詩では桃花は咲かぬ、世事でも良い。面白い話をせよという。李充は困った。詩作に長けた李充であったが、それは学問、政務の上でのこと、要は李充は世事に疎かったのである。しばらく考えていたが、つい昨日、主席で商人から聞いた話を思い出した。邪道に通じる話ではあったが、風趣厚く、李充も大いにうなずいた話であった。霞香姑様、良い話がございます。これは同郷の商人に聞いた話でございますが、その商人は倭国へ船を出したときに、その先で聞き及んだといっておりました。

 ほう、倭国の話か、楽しみだ。李充は商人のした話を一字一句間違えぬよう気をつけながらゆっくりとし始めた。

* * *

 これは人の寿命がまだ千年だったときの話です。天帝さまは諸天を喜ばせるため、木々に花を付けるように命ぜられました。木々は天帝さまを喜ばせようとそれぞれが工夫を凝らした花を咲かせました。木々の中で一番の姉である梅は小ぶりの白い美しい花を、二番目の桃は濃い赤の大輪をつけ、他の木々も思い思いに花を付けます。しかし三番目の桜だけが、花を咲かせません。

 姉の桃は訊きます。どうしてお前は付けないのですか。桜は答えません。次に梅が訊きます。それでも桜は縮こまって答えませんでした。ついに姉たちは天帝さまに相談しました。天帝さま、桜のあの子がどうしても花を咲かそうとしないのです。あの子はきっと美しい花を咲かせるでしょうに。

 桜の様子を見に来た天帝さまはその姿をみてすぐに何故桜が花を咲かせぬのか、その答えに気がつきました。そしていいます。私は今しがた、四季を作り終わったところである。木々はそれぞれ季節を定めて咲きなさい。桜は梅、桃が咲いた後、好きなときに、好きな者のために花を付けよと。

 次の年、梅の花が散り終わろうというころ。桜は花を咲かせました。形の良い、薄紅の花をたくさん咲かせました。そしてすぐに散ります。その花びらはあたりを敷き詰めるほどでした。それは桜の心を映すようでした。

* * *

 桜は何故花を付けなかったのかと霞香姑は訊いた。それはこの話を聞いたとき李充が訊いたことそのままであった。李充は答えられたとおりに、それは桜が姉に恋をしていたからでございます、天帝のために花を咲かせねばならぬのに、そのときの桜にはそれができなかったのでしょうと。霞香姑はいやといった。単に恥ずかしかったのであろう。李充は頷いたが、しかしどうしても解せないのであった。

 鶏の鳴く声がした。李充は目を開ける。背中が痛いということもなく、李充は寝所の床で横になっている姿勢である。霞香姑が現れたのは夢であったか、しかし、吉夢いえば吉夢この桃花のおかげであろう、と李充は床から起き上がり活けてあるはずの桃花の方を向いた。するとどうであろうか。白磁であった花瓶が桜と桃、梅の図柄が描かれた見事な絵付けの花瓶になっているではないか。夢ではなかった、いや、夢ではあったが、現であった。李充は西を向いて叩頭した。

 李充は西湖にて舟遊する賈似道にこの話をして花瓶を献上した。賈似道は大いに感興をそそられ、李充を大変気に入った。李充はその優れた才覚もあってだが重用され、御史中丞にまで出世したという。