フィロスや、箱はどうして四角いんだと思う?
うーん、なんで?
それはおじいちゃんが作ったからなんだよ
え、そうなの?
そうだ、この家だっておじいちゃんのおとうさんが作ったものなんだよ。この家だけじゃあない世の中の四角いものはたいてい、おじいちゃんのおじいちゃんか、そのまたおじいちゃんのおじいちゃんが作ったものなのさ。そして、それはみんな箱なんだよ。いいか、フィロス。箱には大切なものが入っているんだ。けっして閉じこめておくためではなくてな。
じゃあゴミ箱は?
おお、ゴミ箱だって油断してはダメだ、あの中にもちゃんと大切なものは入っているからな。だからってこの間みたいにひっくり返してはいけないぞ。ああいう箱はちと開けるのが難しいからな。
春の日差しがそろそろ東向きの影を作り始めようかという頃、フィロス=アリスンは手製のクッキーの焼き上がりに満足していた。生地に練り込まれたナッツと紅茶が香ばしい。約束の時間には程良く冷めていることだろう。絶妙のタイミングだ。そう、お湯を沸かしておかなくては。茶葉はさっき確認したから切らしてはいない。クッキーに入れたのとは別の種類にしよう。レモンティーには酸っぱい思い出があるって言っていたから、ミルクは多めに用意して……。
フィロスは今、大切な客人を迎える準備をしている。ミーティングの場所に自宅を推薦したのは自分だけれど「期待してるわ」なんて言われて、それが思い人なら張り切らないわけにはいかない。日差しは穏やかで、浅い緑が目に優しい。テラスでお茶とともに午後の一時を過ごすには良い季節。そして染みてゆく眠気に浸りそうになっていた頃、ようやくのご到着。
「それで、どうする?」
肩まで届く栗色のソバージュ、好奇心爛漫と輝く琥珀の瞳、一口に頬張ったクッキーを事も無く下すとソフィア=ファーディはそう言った。
「何を?」
「何って、決まってるじゃない。今後の活動方針よ。いつまでもこうやってのんびりしてるだけじゃ、何処ぞの探偵小説みたいに事件は舞い込んできたりしないわ。」
そう、これこそ今日ソフィアがアリスン邸にいる理由だった。ソフィアとフィロスが所属する(…と言っても二人しかいないのだけれど)調査サークル《ピーナッツ・マカロンとフクロウ》の大事な総会だったのである。もちろん会長はソフィア。フィロスは給湯長という役職をいただいていた。
「まったく、あれだけ売り込んだのにちっとも依頼が来ないのはどうしてなのかしらね。」
そう続けて、ソフィアはわざとらしくため息をついて見せた。けれどフィロスから見た現実は少し違っていて、半ば求めに応じる形で指摘する。
「いろいろと依頼はあったのに、ファーディさんがそんなちっぽけな相談事を聞いているほど暇じゃないって全部断ったんじゃ……っと…」
失敗、またやってしまった。案の定。
「だから、私のことはソフィアさんと呼びなさいって…これ何度言ったかしら。まぁいいわ、次に言ったら降格だから。」
ソフィアは頬杖を付いてわざとらしく溜息をついてみせた。
「え、えっとごめんなさいソフィアさん、まだなれてないというか、はばかられるというか、ついね。給湯長って何かかっこよくて気に入ってるんだ。もう言わないから。」
階級なんてあったっけ?、なんて疑問が浮かぶよりも前にもう無我夢中で謝る。
ソフィアは何故か名字で呼ばれることを嫌っていた。気に触るといけないからとフィロスはそのことについて触れないようにしている。しかし、自分からさん付けを強要するあたり手強い。
ソフィアは先週買ったばかりで新型のラップトップをいじりながら。
「次に言わなければもういいわ。とにかく、離散集合繰り返してるだけじゃ埒が明かないんだから。フィロスはちゃんと売り込みしてるの?」
切り替わりも立ち直りも早い、これもフィロスがソフィアに引かれることの一つだった。しかし、今の言葉には少し引っかかるところがあったのでさすがに聞き返すと。
「意味が分からないんだったら辞書を引きなさいな、ちゃんと載ってるわ」
それはそうだろうけれど……。気を取り直して。
「あることにはあるよ、隣のサンダースさんは猫よけのペットボトルは本当に効果があるのか調べて欲しいって言ってたし、ユーシー姉さんは臭いの残らないトカゲのスープの作り方が知りたいらしいよ。他にもいろいろと話は聞いてあるんだ。」
フィロスはここ数日間の努力の成果を誇らしげに発表したはずだけれど。
「……はぁ、猫よけのペットボトルは完全にデマだし、トカゲのスープはニンニクでもたっぷり入れておけばニンニクの匂いでトカゲの臭いは消えるでしょ。そんなみみっちいことではなくてもっとこう、事件性の溢れるような依頼はないのかしら。例えば、開かずの扉とか。」
小さな依頼でも小遣い稼ぎぐらいにはなるんじゃないかなんて思ったフィロスだが、それを口に出す考えもないし、むしろそんなことを考えるようだから自分は姉たちにやたらとけなされるのだろうななどと勝手に納得してしまう。そのあたりはフィロス16年間育ててきた環境と、何より愛の力というものか。そして、その力せいか否かフィロスは心の片隅に追いやられていたことをふと思い出す。
「開かずの扉は思いつかないけれど、開かずの箱ならあるよ」
「開かずの箱?」
「少し待って」
フィロスは椅子から勢いよく立ち上がると慌ただしく屋内へと入る。
階段を駆け上がる音、何かに当たった音、転がり落ちる音、尻餅をつく音、そして足を引きずりながら階段を上る妙なリズムがソフィアにはさぞ滑稽に聞こえたのだろう。
「痛々しいわね」
口もとをゆるめて、唇の渇きに気づいたのかティーカップを傾ける。
「苦いわ、ミルクが足りてない」
給湯役の配慮の足りなさを非難しつつ、ソフィアの指先は可愛らしく盛られたクッキーの丘へと伸びた。
「これなんだけど」
フィロスがたっぷり十五分はかけて持ってきたのはA4サイズ、深さ15センチくらいの木の箱。
「もとは僕の祖父の箱なんだ。一回父があけようとしたんだけど何かあったらしくて見た途端やめてしまったっきり、それ以来誰も開けようとしてないよ。」
「それで?今はだれのものなの?」
「祖父はもういないし、捨てるのもはばかられるからって僕の部屋に置いてあるんだ。だからもう僕のものって言ってもいいと思う。」
ソフィアは少し首をかしげた後。
「まぁ、いいでしょう。最初に身近な依頼からこなすのも良い練習になると思うし。決めたわ、我が“ピーナッツ・マカロンとフクロウ”の最初の依頼は≪開かずの箱を開けろ!≫よ。」
人差し指を立てて見栄を切るように格好良く極める。
「じゃあどうやって開けるかを…」
「まだよ」
間一髪入れずにソフィアがフィロスの言葉を遮る。小気味良くにやりと笑って。
「箱の持ち主であるフィロス、あなたからの依頼でしょう。報酬はどうする?」
「クッキーってわけにはいかないかな」
「クッキーならもう食べてしまったわ」
もうすでに無くなってしまったものはモチベーションにはつながらないらしい。けれどこのときばかりはフィロスにも返す言葉があった。
「まだあるんだ、それにまた焼くよ。」
「ピーナッツ・マカロンもね」と付け加えられてようやく、フィロスにも会命名の由来の半分が理解できたのだった。
フィロスはカシャカシャと木箱に施された数個の閂を外し始めた。
「え、開かないのでは無かったの?」
「開かない箱はこれじゃなくてこの中なんだ」
箱を開くとそこにはまた、今度は金属製の箱が入っていた。全面銀色で取っ手などもついていない角が立つほど真四角の箱、これならもう一重何かで覆っておかなければ危ないだろう。
「これって…」
ソフィアは身を乗り出して箱を確認する。見覚えのあるものらしい。箱の6面を1面ずつ見て回り、全面中央に空いたスリット状の穴をペンライトで照らしながらのぞき込んで、それから目をつむり、足を組んで、人差し指でこめかみをつつく。フィロスはこれがソフィアが考え事をするときの姿勢だと、知っている。
「これって、ヒッピアスの箱じゃない。うん、間違いない。ヒッピアスの箱よ、これ。」
「フィロス、あなたのおじいさんの名前は?」
「え、ヒッピアス=アリスンだけど」
「やっぱり、アリスンなんて姓何処にでもいるから気がつかなかったけど、フィロスってあのヒッピアス=アリスンの孫なのね」
「ソフィアさん、ヒッピアスの箱って?」
「フィロスは知らないのね。まあ、ご両親が言いたくないのも分かる気がするわ、だいぶん苦労されているみたいだし。それに、普通だったら一生縁がないかもしれない代物だもの」
「もしかして、僕のおじいちゃんって有名人だった?」
フィロスはいきなりのことの急展開に少し動転している。
「ある意味ね。あなたのおじいさんは若い頃からひとりでこつこつと発明家みたいなことをしていたらしいわ。結構いい仕事をしていたみたいだから、ある会社が開発者に雇ったの。そしてありったけの開発費をつぎ込んで作ったのがこの決して開くことのない最硬の箱。でも売れなかったのよね、これ」
そう売れなかった。作ったのはよかれ、正規の開け方をしても開くのに2時間もかかるし、第一値段も家一軒(噴水付き)が買えてしまうほど高かったのだから、銀行の貸金庫にでも入れてしまう方が賢いに決まっている。
「それで、当然会社からは解雇されて。後のことはわからない。さんざん聞いた話だから耳からネズミが出そうよ。売ろうとする方にも問題がありそうな気がいつもするけれど」
一通り説明を聞いてフィロスは恐る恐る口を開く。
「じゃあこれもう開かないのかな」
それに対してソフィアは勢いよく立ち上がるとフィロスに向き直って。
「いいえ!あれは正しい開け方をすれば必ず開くものよ。それに」
ソフィアは栗色のソバージュにするりと指を通して。
「最初の依頼から失敗していたのではピーナッツ・マカロンの名が廃るわ。」
もうフクロウはどこかへ飛んでいってしまっているらしかった。
「まず鍵を探しましょう」
作戦本部が置かれることになったテラスのテーブルの上に両肘をついて指を組み、ソフィアは方針を降した。
「ソフィアさん、今日は珍しく正攻法なんだ」
ほっとした拍子につい口が滑る。
「そこ、一言も二言もおおい。全く説明ばっかりね。この箱は最新の現金輸送車の荷台と同じ素材でできてるの、そこらにある設備では穴も開かない。おまけに無理に開けようとすると中にある電池のエネルギーを一気に消費して中のものが黒こげになるわ。ここは鍵を探すのが最短のルートでしょう」
なるほど、そう言われるとソフィアの言う通りだと思う他無い、だとすると。
「でも、そもそも鍵があったら開いているわけだし。この間のパーティーの前に全部の部屋を掃除したけど鍵らしいものは出てこなかったよ」
「鍵と言っても普通の鍵穴に入れるような形じゃない、兵隊が首にかけているIDタグみたいな薄っぺらいプレートよ」
そう言われても、フィロスには本当に心当たりが無かった。そんな形のものならクレア姉さんの部屋にはありそうなものだけど、それは間違いなく本物のアクセサリだろう。
「他に探していないところはないの?」
「後は、おじいちゃんの部屋ぐらいかな。そこに見える小屋がそうなんだ。」
確かにフィロスが指さした方向、庭の隅にはこれまた四角い小屋があった。二人はその小屋の前に移動しながら。
「でもこの小屋、おじいちゃんしか入れないようになってるんだ。だから今は誰も入れない。」
「それって、開かずの間って言うんじゃないの?」
「あ…」
でもこんなことで調査の方向性を曲げるようなソフィアではないことはフィロスも知っている。
「ほら取っ手もないし、鍵みたいなのがかかって…」
カードキー式のようだ。そのとき、フィロスの後ろからさっと手が伸びてキースロットに何かを差し込んだ。それはソフィアのラップトップにつながっていて、ソフィアがかたかたとやって、パンとキーを弾くと。
ピー、プシュ、トン。
「あ、開いた!」
「入るわね」
ソフィアはキーアナライザをスロットから引き抜くと、何事も無かったかのように小屋へとはいる。フィロスはただ呆然としているかと思えば。
「ソフィアさん凄い!」
感動の渦の中だった模様。
「なかったね」
そう無かった、相当の時間をかけて探したはずなのに無い。
「おかしいわ、こういうのだと普通本人の日記の間に挟んであったりするものだけど」
彼女お気に入りの探偵小説に良く使われる手だ。
「日記は書かない人だったらしいね、日記はおろかほんの一冊すらない。あるのは変な箱がたくさんとこんな板だけ…」
「それ、何処にあったの?!」
「えっと、この机の上だけど」
フィロスが手にしているものは一枚の磁気ディスクだった。ソフィアはそれを手渡されるとすかさず手持ちのラップトップに挿入する。暫くジリジリとしたあと、画面にはなにやら線がいっぱいの画像が表示された。
「これ、設計図だわ」
「え、」
「この箱の設計図よ、これがあれば」
「またアレをするの?」
「相手はヒッピアスの箱よ。こんな小さなラップトップじゃ追いつけない。…そうよ、フィロス」
「なに?ソフィアさん」
「開くわ、この箱」
そう言って勇んで外へ出たソフィアを追ってフィロスも小屋から出る。辺りはもうすっかり暗かった。
フィロスたちは宇宙船のような扉の前にいた、辺りも無機質な白一色の通路になっている。扉の右横では当然のようにカードスロットのランプ赤く光っていた。ここは30階建てのビルの地下1階だ。フィロスはソフィアに着いてきただけだが守衛や受付の人がよそ見をしている間を見計らって縫うようにやってきたのだから、通路に入った途端、自動感知式の照明がついたときにはびっくりした。フィロスはまたしてもソフィアがアレをするのだと思って少し期待していたし、さすがにまずいのではないかなどとも思っていたのだけれど、ソフィアがさも当然のようにカードキーを取り出してスロットに差し込むと、ランプが青く点灯したものだから、がっかりしたような、ほっとしたような不思議な気分だった。
入ると自動的に明かりがつく。フィロスの丈の1.5倍はあろうかという大きな箱が整然と並んでいた。
「これはうちの研究用の計算機よ。この辺りではDSK続いて2番目速いわ。けれど、消費電力もばかにならないからいつも稼働してるわけではないの。さっきのディスクの中に鍵のエミュレーションプログラムも入っていたからこれだけの設備があれば十分にあくわ」
早速作業に取りかかる。
「フィロス、鍵穴にこのプラグを差して。白橙、橙、白緑、青、白青、緑、白茶、茶の順番。間違えないでね。」
「えーと、白橙……」
「電源、入れるわよ」
ガチンッ。
ソフィアがレバーを上げると部屋全体にゴーと冷却ファンからのエアフローの音が響き渡る。
「製造番号は…0000001か、記念すべき第一号というわけね」
ソフィアはソースファイルに向かっている。
「ふぅ、やっと通った。そっちは準備できた?」
「大丈夫みたい、何とかつながったよ」
「始めるわ」
作業は音もなく始まった。
「どのくらいかかるのかな」
「いわなかったかしら、2時間と5分よ」
「そんなに?」
少しの違和感。
「そうよ、私は疲れたから寝るわ。何かあったら起こして。」
そう言ってソフィアはいすの背もたれに深く体を預けて腕を組んだまま寝入ってしまった。フィロスはというと。
「お、起こす?起こすって」
何か別のことで頭がいっぱいのよう。そんな二人には2時間なんてあっという間だった。
ピー、ピーっというビープ音でソフィアは目を覚ました。起きあがると何かが床に落ちる。フィロスの上着だった。目線を右に移すと本人が気持ちよさそうに寝ている。画面には「Enter your password」と表示されていた。
「きたわね、フィロス、起きなさい」
「え、あいたの?」
「まだよ、まだ大切な仕事が残ってる。こればっかりはどうあがいたって私にはわからない。チャンスは一回。間違えたらおそらく中身は黒こげね」
パスワード。フィロスは少し面食らった。これって開くのも、開かないのも自分次第ってことだよね。もし開かなかったら、ここまでしてくれたソフィアさんはどう思うだろう。あけたい、あけたい。
「ちょっと、落ち着きなさい。焦らないで時間は5分あるわ。よく考えて」
ソフィアの声にフィロスも少しの落ち着きを取り戻す。っと言ったって、パスワードがわかるわけじゃあない。どうしよう、助けておじいちゃん。
≪箱には大切なものが入っているんだ≫
「え?」
ふっとよみがえる、一幕の記憶。おじいちゃんが箱を持ってきたのもあのころ。そうだ、あのときおじいちゃんはなんと……。
ピー、カチ、カチ、カチ、カチ、ガチン。
機械仕掛けのロックの開く音がした。ソフィアがプラグをはずしそっと持ち上げてふたに手をかける。すると前側から小さな隙間が開いた。
「開けるわ!」
宝箱のように箱は大きく口を開けた。そして中に入っていたものは。
「「……」」
「これって、もしかして」
フィロスがおそるおそる口にする。そう箱の中に入っていたものはIDタグのような小さなプレートだった。
「「鍵!?」」
そう箱の中に入っていたものは、まぎれもなくヒッピアスの箱の鍵だった。ただ、この箱のものであるかを確かめるにはさらに2時間を要するわけだが。
「はぁ、中身を目的にしていたわけでは無いけれど、さすがにフィロスのおじいさんね。何も入ってなかった方がまだ精神的に負担が軽かったかもしれないわ。」
そう言いつつも、ソフィアは腕を組んで満足そうな顔をしていた。
「どおりで家中探しても見つからないわけだ」
その場にへたり込むフィロスだが。
「箱は空いた。良しとしましょう」
とソフィアが声を掛けると、
「そうだね、そう言われると何もしてないはずなのに達成感のようなものを感じるよ」
そう言いつつも、自分も他人のことは言えないくらい現金だな、と思ったのだった。
ピー
後ろの方から電子音が響く。驚いて二人が振り向くと、入り口のドアが開くところだった。
「やっぱりここか、フィロス。部屋の鍵が開いていたのでな、あれもなくなっとったし。それにおまえの声が聞こえたような気がしてな」
「あなたは…」
「おじいちゃん!」
「へ、あなたのおじいさんなの?フィロスが遠くを見るようにおじいさんのことを話すから私てっきり」
てっきり、故人と勘違いしてしまったのだった。
「そちらのお嬢さんは、ここの社長のご令嬢かな」
「そ、それは」
「おっと、言ってはいけなかったかな、失礼」
関係者だとは思っていたけれど。フィロスは驚きすぎて何がなんだかわからなかった。しかしそれでも疑問は尽きない。
「それよりおじいちゃんどうやってここに入ってきたの?」
「ああ、ここはわしが10年前まで勤めていた会社だからな。内装は変わっとったが中身まではかわっとらんかったよ。この箱か?この箱はうっかり研究中に鍵を閉じこめてしまってな、どうにもならんから家に持ってかえっておいておいたらカイトがどこかに持って行きよったんだ。あいつも技術者の端くれだからいいおもちゃにでもなるだろうとおもっとったんだが…」
カイトというのはフィロスの父の名前だ。
「ヒッピアス=アリスン!」
さっきまで黙っていたソフィアがヒッピアスの名を呼んで、キッと彼を見すえる。
「お嬢さん、わしはあのことを経営者側の責任にするつもりは毛頭無い。わしはあなたさんにとってよい教訓としての存在になれたかの」
ソフィアは口元をゆるめて。
「あんなこと、私には関係ない話よ。尊敬しているわ、技術者として。」
「それはうれしいことだ。これだけのクラスタマシンを動かすには相当頭を使わんといかんかったじゃろう。将来が楽しみだ。…さてもう遅い。フィロスも眠いだろう。帰るとしようか」
ソフィアとフィロス、そしてヒッピアスは開いた箱とともに家路につくことになった。先頭を歩くのはソフィアだ。守衛さんや残業の人から声がかかる「お疲れ様です。ファーディさん」。それでも彼女は機嫌を損ねることはなかった。
帰る途中、ヒッピアスがフィロスにそっと訪ねる。
「どうだ。大切なものは入っていたか?」
フィロスはそれに愛情で満ちた笑顔で答えた。
End